Essays in the Intellectual History of Colonial Latin America.

Benjamin Keen
Westview Press. Colorado. 1998. 256pp.ISBN:  0-8133-3402-0

著者のベンジャミン・キーン(1913~)はミューレンバーグ・カレッジを卒業したあと,リーハイ大学(ペンシルバニア州)およびイェール大学(コネティカット州)に学び,博士号を取得。その後,イェール大学,ウエスト・ヴァージニア大学など、数々の大学でラテンアメリカ史講座を担当し,現在はノーザン・イリノイ大学のラテンアメリカ史担当名誉教授を務める合衆国のラテンアメリカ史研究の重鎮。主要著書に、  『西欧の思想に見るアステカ像』The Aztec Image in Western Thought (Rutgers,The State University.  1971)やコロンビアの歴史家フワン・フリーデJuan Friedeと共同で論文集『歴史上のバルトロメー・デ・ラス・カサス』Bartolome de Las  Casas in History (Northern Illinois University Press. DeKalb.1971)などがある。
本書は過去に発表された11篇の論文に、著者自らが修正もしくは加筆して編纂した作品であり,構成は以下のとおり。
(1)  バルトロメー・デ・ラス・カサスをめぐる歴史的評価の変遷:1535~1995年
(2) バルトロメー・デ・ラス・カサスの遺産
(3)  「黒い伝説」再考: 仮説と現実
(4) 「白い伝説」再考: ハンケ教授の”控えめな提案”に対する返答
(5)  16・17世紀のヨーロッパにおけるインディオ像:社会的解釈
(6) 旧世界と新世界の遭遇:いくつかの影響:1492~1800年
(7)  アロンソ・デ・ソリタとその作品『ヌエバ・エスパーニャ報告書』に関する考察
(8) アーバイン・ショーベトンの作品に描かれたアメリカ像
(9)  西欧思想におけるインカ像
(10)歴史におけるコロンブス:その人と業績に関するさまざまなイメージ:1492~1992年
(11)イスパノアメリカ植民地時代に関するアメリカ合衆国の作品にみる主潮:1884~1984年

この構成内容からも分かるように,本書は主として(一)ラス・カサスおよびスペイン王室の植民地政策,とくにインディオ政策をめぐる歴史的評価の変遷とその意味(第1~第4論文),(二)「新大陸」の先住民インディオや彼らが築いた文明(アステカ,インカ),およびコロンブスに関して欧米諸国で形成されたイメージとその創出要因と歴史的意味(第5~第10論文),(三)アメリカ合衆国におけるラテンアメリカ植民地時代研究史(第11論文)という,三つの大きなテーマに大別できる。いずれの論文も共通して,取り上げられるテーマが特定の人物,作品,制度,現象、あるいは,出来事であっても,「新世界」が近代から現代にかけて,ヨーロッパ・キリスト教世界(「旧世界」),さらにはアメリカ合衆国を加えた,いわゆる欧米諸国―とくに植民国家―の社会・経済・政治と密接に関わりながら,知的世界の動向にきわめて重要な影響を与えた地理的空間であったことを解明するのを目的としている。その点で,著者は,「新大陸はいわゆる近代初期のヨーロッパの政治,外交,経済組織の中に組み込まれてしまったばかりか,その思想体系の中にも漸次組みこまれつつあった」と主張するイギリスのJ.H.エリオットと歴史認識を共有していると言える。換言すれば,作品はいわば「新世界の挑戦」―エリオットによれば「新世界の衝撃」―に対する「欧米のレスポンス」の実態を膨大な文献を渉猟して通時的に明らかにしたものである。したがって,本書はラテンアメリカ植民地時代史を研究するうえでも,書誌学的資料として貴重な価値を有している
本書に関しては、大阪外国語大学言語社会学会誌『エクス・オリエンテ』Ex Orienteに三回にわけて「書評論文」と題して詳細に紹介したので(Vos.6,7,8.  2002-2003.)、関心のある方は同学会誌を参考にしていただきたい。ここでは、本書に収められている11篇の論文から代表的な論文を3篇取り上げ、その「書評論文」の一部を紹介することにしたい。
第1論文「バルトロメー・デ・ラス・カサスをめぐる歴史的評価の変遷:1535縲鰀1995年」は,著者が先記の『歴史上のバルトロメー・デ・ラス・カサス』の序文として発表した論稿をもとに,1971年以後のラス・カサス研究で明らかになった新しい事実などを踏まえて書き改めたものである。著者は過去460年間を俯瞰し,16世紀のスペインおよびインディアス窶煤uスペイン領新大陸」の正式な呼称窶狽ノおいて植民地主義を標榜する人々にとって権威ある作品となった『インディアスの博物誌ならびに征服史』Historia natural y general de las Indias (Sevilla)の著者フェルナンデス・デ・オビエドGonzalo Fernandez de Oviedo(1478-1557)から,20世紀末,コロンブスの「アメリカ到達500年」を記念して『アメリカとヨーロッパの良心に見るラス・カサスの思想』El pensamiento lascasiano en la conciencia de America y Europa (Mexico,1994)を発表したメキシコの社会学者パブロ・ゴンサレス・カサノヴァPablo Gonzalez Casanovaにいたる,のべ100人を越える知識人たち窶狽P6世紀にかぎって言えば,シエサ・デ・レオンCieza de Leonのような征服者兼クロニスタも含まれる窶狽ェラス・カサスの運動窶白・メはこの運動を「インディアニスモ」と名づけているが,正しくは「インディヘニズモ」窶狽竡v想(作品)に下したさまざまな評価をそれぞれの時代背景に絡ませながら簡潔に解説する。
16世紀後半以来20世紀初頭にいたるまで,ラス・カサスに対する評価は,征服戦争の残虐非道な実態を生々しく書き綴った論策『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』Brevisima relacion de la destruccion de las Indias (Sevilla,以後 『インディアスの破壊』と略記)と,スペイン人を「世界史上,稀に見る残忍な国民」として厳しく非難する反スペイン運動窶狽Q0世紀初頭,スペインの保守的政治家フリアン・フデリーアスJulian Juderiasは16世紀以来激しくなったその運動を,ヨーロッパの反スペイン,反カトリック勢力が捏造した根も葉もない「黒い伝説」と命名した窶狽ニの関係をめぐって大きく二分されてきた。著者はラス・カサスの『インディアスの破壊』と「黒い伝説」の関係を軸に、ヨーロッパ列強諸国におけるラス・カサス評価がとくにカトリック世界の牙城となったハプスブルグ朝スペインとの政治的関係に大きく左右されたことを明らかにする。
例えば,イギリスでスペインの「新世界征服」に関する見解を明らかにした最初の人物リチャード・イーデンRichard Edenの『新世界すなわち西インドの十年代記』The Decades of the Newe Worlde or West India (London 1555)では,征服は「慈悲深い戦争」で,スペインの意図は無辜な先住民を人肉嗜食にふける残忍なカニバル族から保護することであったと記され,スペインの征服戦争は擁護されている。すなわち,ラス・カサスの征服批判は否定されているのである。ところが,とくに17世紀,「西インド諸島」がクロムウェルOliver Cromwellの植民地戦略の重要な拠点となると,一転して,『インディアスの破壊』が次々と英訳されて出版され窶狽オかもタイトルは『インディオの涙』The tears of the Indiansと改められた窶煤Cスペイン人征服者の非道ぶりが批判され,彼らを弾劾したラス・カサスが賞賛されるようになった。
著者によれば,それはカトリックのメアリー・チュダーの即位とスペイン国王フェリペ二世との結婚などを通じて,いわば大国スペインの「傘の下」に置かれた「後進国」イギリスがエリザベス女王の即位(1558)以後,カリブ海域における海賊の横行を蔭ながら支援したり,当時スペインの支配下にあったオランダの独立戦争を支持したりして,次第にスペインとの友好関係に終止符を打つような外交政策を取り出したことと密接に関係していた。換言すれば,植民地支配や商業的意図から,ラス・カサスの征服批判が高く評価されたのである。
しかし,著者のこの主張は別段目新しいものではなく,従来のラス・カサス研究者が唱えていたのとほぼ変わらない。ただ,著者がイギリス人パーチャスSamuel Purchasによって1625年に出版された『インディアスの破壊』の英訳版窶狽アれは四巻からなる『旅行者たち』Pilgrimesに所収窶狽フ序文では,1583年にロンドンで刊行された英訳版でスペイン人征服者を表現するのに使われた暴君tyrantや虐殺者butcherという訳語が削られている事実を指摘して,「パーチャスの意図はイギリスの読者に,はるか彼方の世界で起きた不思議な出来事を知ってもらうことであり,政治的動機によるものではなかったことを示唆している」と結論づけているのは首肯しがたい。もちろん,当時の知識人の中に、フランスのモンテーニュMontaigneのように,スペインの征服や植民地政策をいわば狭隘な愛国主義的な精神からではなく,より普遍的な立場窶狽ニは言え,キリスト教絶対主義の世界観に裏打ちされた場合が多い窶狽ゥら批判した人たちが存在したのは事実である。しかし,パーチャスの意図に政治的動機がないと見る著者の解釈は短絡にすぎる。
この点で重要なのは,イギリスでは、1589年、すなわち、スペインの無敵艦隊を破ったその翌年に、ハクルートRichard Hakluytによって膨大な記録集『イギリス国民による航海・旅行・発見』The principall navigations,viages and discoveries of the English nation (London 1589)が刊行されたことと、スティールColin Steeleが指摘しているように,ハクルートの作品の第二版出版(1598-1600)とアメリカにおけるイギリスの植民活動の「離陸」とが時を同じくしているという事実である。すなわち,ハクルートは海外植民と対外貿易に自国の未来を賭けたイギリスのいわば国是にそって作品を公刊したのであり,パーチャスはそのハクルートの後継者を自認したのである。したがって,彼の編纂した『旅行者たち』が政治的意図なくして出版されたというキーンの解釈は蓋然的すぎるといっても過言ではないだろう。
さらに,やや奇妙に思えるのは,『ヌエバ・エスパーニャならびにグァテマラを旅したイギリス系アメリカ人の旅行記』The English American his travail by sea and land…(1648)を著し,スペインの過酷なインディアス支配の実態を告発したイギリス人でもとドミニコ会士のゲージThomas Gageについて,著者がいっさい触れていないことである。ゲージがクロムウェルと密接な関係にあったことや,彼が作品の序文にラス・カサスの名を挙げて,スペイン人による征服・支配が無数の先住民を死に追いやった事実の論拠にしていることを考慮すれば,彼が本論文で扱われていない理由は判然としない。
いずれにしても,ヨーロッパにおけるハプスブルグ朝スペインの勢力が衰えを見せはじめ,反スペイン運動の必要性が減じるにつれて,スペインでは依然としてラス・カサスの著作は禁書扱いされたものの,ピレネー以北では、ラス・カサス評価は大きく変化を受けることになった。とくに、「理性の時代」と呼ばれる啓蒙主義時代には,ラス・カサスは一方では「人道主義の英雄」,「専制政治や狂信主義の敵」として,ヴォルテールVoltaire(『アルジール』Alzire)やマルモンテルMarmontel(『インカ帝国の滅亡』Les Incas ou la Destruction de l’Empire du Perou. 1777)によって讃えられる一方,「黒人奴隷の導入者」,「嘘と誇張に塗り固められたクロニカの作者」として、オランダの哲学者デ・パウCornelius De Pauw(『アメリカ人に関する哲学的省察』Recherces Philosophiques sur les Americains. 1768)やイギリスのロバートソンWilliam Robertson(『アメリカ史』History of America. 1777)らによって弾劾された。
ここで注目しなければならないのは,啓蒙主義時代におけるラス・カサス評価をめぐる著者と先記のエリオットの解釈の間に,ほとんど違いが認められないことである。すなわち,キーンもエリオットもともに,ラス・カサスを「インディオの使徒」,「アメリカの父」として,また,「文化相対主義」の旗手として評価しているのである。そのようなラス・カサス観は,ラス・カサスを「大航海時代の幕開け」にあっていち早く,キリスト教絶対主義にもとづく西欧中心主義的歴史認識の危険性を鋭く感じ取った稀有な「歴史家」と見る立場からすれば,進歩史観に基づいているように思えてならない。それは,キーンもエリオットも,百科全書派ディドロDedroitのラス・カサス評価にいっさい言及していないことによっても証明されるだろう。
19世紀,いわゆる「革命の時代」に入ると,ラス・カサスはアメリカ合衆国を含む欧米諸国やスペインからの独立を目指すイスパノアメリカで,「圧制と戦う闘士」,「預言者」として高く評価され,一時期スペインでも,彼の著作,とくに『インディアス史』の出版が計画されたりした。しかし,世紀中葉,スペンサーHerbert Spencerの進化哲学やゴビノーComte de Gobineau (Joseph Arthur)らの人種主義理論が,とくに独立を達成したものの,政治的安定や経済的自立からほど遠い状況に置かれたイスパノアメリカ諸国の知識人に大きな影響を及ぼすようになると,ラス・カサスは,例えば「善意にもとづいて実現性のない大義を弁じた人物」というような,消極的な評価を受けるにいたった。著者はその代表的人物としてメキシコの超保守主義的な歴史家ガルシア・イカスバルセタJoaquin Garcia Icazbalcetaを取り上げる。イカスバルセタは「劣等な民族集団を優秀な民族集団と同等に位置づけた奇妙な法令が発布された結果,インディオは衰退し,減少した」と論じ,ラス・カサスらの運動によって制定されたとされる「インディオ保護法」がインディオから生存競争を経験する機会を奪ったと批判した。著者によれば,ラス・カサスに好意的,敵対的であるに拘わらず,当時の知識人は反エンコミエンダ闘争に見られるラス・カサスの思想のもつ「ラジカルな社会政治的意味」を無視したのである。著者のその主張には,「歴史家」ではなく,「政治家」ラス・カサスの思想に重点を置く立場が鮮明に現れていると言えるだろう。
ついで,著者は,スペインの植民地政策とラス・カサスをめぐる合衆国における評価の変遷を,19世紀初頭から20世紀末にいたるおよそ2世紀間に著された作品を中心に取り上げて,かなりの紙数を割いて論じる。広く受け入れられている通説によれば,「黒い伝説」的解釈が19世紀の合衆国における植民地時代史研究を支配したが、その傾向は20世紀初頭のボーンEdward G. Bournの『スペイン支配下のアメリカ』Spain in America(1904)によって180度の変化を遂げた。著者は,その通説がシンプソンLesley B. Simpsonの『ヌエバ・エスパーニャにおけるエンコミエンダ』The Encomienda in New Spain(1929)によって広められたことを指摘したあと,その通説に異論を唱える。そして,南北戦争(1861-65)前後に著された代表的な作品が必ずしも「黒い伝説」の立場にもとづいていないことを、コロンブスの生涯と航海を論じたアービングWashington Irvingや、スペイン人による「アステカ王国」および「インカ帝国」の征服史を扱ったプレスコットWilliam H. Prescottに代表されるロマン主義的歴史家や、「アメリカ民族学の創始者」と呼ばれるギャラティンAlbert Gallatinの作品を取り上げて立証する。著者によれば,19世紀から20世紀初頭にかけて,歴史家の評価は両義的であり、どちらかといえば、社会進化論と攻撃的なナショナリズムに裏打ちされた「白い伝説」窶買Xペインの征服・植民地政策を積極的に弁護もしくは評価し、ラス・カサスに対しては否定的な評価を下す傾向窶狽ェ支配的であった。
その主張の根拠は,ロマン主義的解釈を排して、アステカ社会を北アメリカのイロクォイ族の単純な社会組織と同一視し、先住民を「文明」からかけ離れた野蛮な存在とみなしたモルガンLewis Morgan [1887]ら,人類学者たちがスペインによる征服に関する「黒い伝説」的な評価を否定したことにあった。知識人たちはそのような流れを背景に、アングロサクソンの帝国主義的政策とスペインの征服・植民地政策を比較し,スペイン人征服者の行動を容認するような主張を唱える一方,ラス・カサスに対しては,その博愛的行動を讃えたが,彼の証言の信憑性を否定し、現実認識の甘さや誤解を批判することになった。著者はそのような歴史家たちの中できわだって重要な人物としてバンクロフトHubert H. Bancroftを取り上げる。
著者によれば,バンクロフトは,スペイン人がインディオに対して犯した残虐非道な行為を厳しく糾弾するが,スペインの征服・植民地政策に異議を唱えたラス・カサスとは一線を画し、彼のことを「恨み深く、反対者には手厳しく、そのためにしばしば事実を誇張したり、誤解したりした・・・」と記した。さらに,バンクロフトは,相対主義的な立場から、「文明」や「進歩」という言葉の意味は時代によって変化すると主張し,モルガンの主張する固定的な社会発展の図式を排し,先住民文明に関しては人類学者と意見を異にした。したがって,著者の推察するところでは、進行中の植民地戦争に強く反発するバンクロフトがスペイン王室の征服・植民地政策を容認したのは,あくまでも被征服地の住民(カリフォニア州のいわゆるヒスパニク系住民)に対するアングロサクソン(北アメリカ)人の態度への批判の裏返しにすぎなかった。いずれにしても、著者は、少なくとも19世紀の合衆国では、「白い伝説」的な解釈が支配的で、歴史家たちもおおむねそれに共鳴していたと主張し、以下のような結論を導いている。
「これらの歴史家たちを特徴づけるのは、(一貫してではないが)倫理的判断を避ける相対主義と、植民地の征服と搾取をまるで人生の不幸だが避けがたい事実のように捉える≪ハードボイルド非情非情な≫見解と、スペインの植民地政策とその実態をインディオの観点からではなくスペインの観点から評価する傾向であった。」
著者も指摘するように、このような修正主義的歴史観の台頭は、合衆国がカリブ海域および太平洋に勢力を拡大するころとほぼ時期を同じくしていることに注目しなければならない。換言すれば、バンクロフトのラス・カサス論に代表されるような否定的な見解が支配的になった背景には、スペインが植民国家としての地位を失い,合衆国のライバルでなくなった政治的現実があり、換言すれば,「黒い伝説」やラス・カサスは,もはやライバルを打倒する宣伝の武器としての価値を喪失したのである。したがって、合衆国が帝国主義的政策に行き詰まるまで、すなわち、1929年の世界恐慌の勃発に至るまで、そのような修正主義的歴史観がラテンアメリカ史学界を支配することになったのも当然であった。
そうして、著者は先ず、その代表的な歴史家として、米西戦争の勃発した1898年に『アメリカにおけるスペイン支配の確立』The Establishment of Spanish Rule in Americaを発表したモージスBernard Mosesを取り上げる。カリフォルニア大学におけるラテンアメリカ史研究と教育の先駆者モージスは、征服が惹起したさまざまな倫理的問題にはいっさい触れず、スペインとイギリスの植民地政策を比較して、ラテンアメリカが後進地域であるのはスペインの人種混交政策の結果であり、その最大の原因はインディオにあると断定し、以下のように論じた。
「先住民個人個人の立場、あるいは、集団としての立場から見れば、イギリスの政策は過酷かつ許されざるものに見える。しかし、・・・社会発展の観点に立てば、もし偉大なる目的が達成されさえすれば、おそらく、イギリスの政策は正当化されて余りある。」
著者によれば、このような修正主義的歴史観にもとづくラテンアメリカ植民地時代史研究において、該博な知識や優れた歴史批判の方法の点で画期的な作品となったのが先記のボーンの『スペイン支配下のアメリカ』である。ボーンは法制史研究に重点を置いて、スペインとイギリスの植民地政策を対照し、スペインのインディオ保護法を他に類を見ない慈悲深いものとみなした。その結果、ボーンはスペイン王室のインディオ政策を理想化して描き、レパルティミエントやミタ制などの強制労働に喘ぐインディオの状況にはほとんど関心を払わなかった。つまり、ボーンの作品は「黒い伝説」を否定し、スペインの植民地政策を肯定的に評価するものであり、合衆国におけるラス・カサス評価に大きな影響を及ぼすことになった。そして、その影響を誰よりも大きく受けたのが先に触れたシンプソンである。
シンプソンが1929年に公刊した『ヌエバ・エスパーニャにおけるエンコミエンダ』はエンコミエンダ制研究の基本文献であり、植民地社会史研究に新しい道を開いた貴重な作品である。しかし、「搾取は自然な秩序の一部であり、スペイン人植民者が置かれていた環境からすれば、インディオ労働力の強制的な使役は止むをえなかった」と主張する彼によれば、エンコミエンダ制の是非をめぐる闘争の歴史はスペイン王室の改革への努力の歴史であり、その努力を決定づけたのはラス・カサス窶買Vンプソンによれば、「自らを、悪魔の手先たちを撃つために天使たちの軍隊を率いる,怒れる聖ミカエルだと考えた人物」窶狽轤フ運動ではなく、王室の経済的かつ政治的な関心であったと断言する。そして、かつてのデ・パウの説を甦らせて、ラス・カサスをアメリカにおける黒人奴隷の導入者として批判する。これに対して、著者は「社会史を研究する学者の意見としては甚だ奇妙である。社会史を研究する学者なら、プランテーションの奴隷制を生み出したのが個人とは無関係な経済的圧力であったことに気が付くはずである」と、辛辣な批判を加えている。
もっとも、シンプソンは1950年に同じ著作の再版を公刊したとき、「ラス・カサスが数多くの世代の歴史家に影響を及ぼしたのは実証され、認められていることなので、ここで詳しく論じる必要はない」と記し、かっての激越なラス・カサス批判は姿を消し、インディオ保護法の制定における彼の役割を否定していない。そのようなラス・カサス論の変化は、シンプソンが、のちに歴史人口学派として国際的な評価を受けるカリフォルニア大学バークリー校のクックSherburne Cookらの行ったスペイン支配下の先住民人口の減少に関する実証的な研究成果窶狽P6,17世紀に、およそ80%ないし90%もの人口減少が生じたことが明らかにされた窶狽mり、ラス・カサスの証言の信憑性を認めざるをえなくなったことによる。
しかし、それは20世紀中葉のことであり、それまではボーン、シンプソンによって強化された「白い伝説」的評価がランニングJohn Tate LanningやチャップマンCharles Chapmanら、数多くの歴史家に受け継がれ、さらには、フランシスコ会士ステック Francis B. Steckのように、カトリックの歴史家の間にも、スペイン王室の植民地政策をキリスト教国家の中でも最も公正なものとみなし、ラス・カサスを無分別な人物、「黒い伝説」の責任者として非難する研究者が現れた[Keen 1998:37-38]。このようないわばラス・カサスに対する反動が学界を支配していたときに、史料にもとづいてより客観的にラス・カサスおよび、スペイ王室のインディオ政策をめぐる闘争で彼の果たした役割を研究しようとする歴史家が現れた。ルイス・ハンケLewis Hankeである。
ハンケは1930年代初頭から,公刊史料は言うまでもなく,古文書館所蔵の膨大な関係資料にもとづいて,16世紀初頭にドミニコ会士が開始した「アメリカ征服における正義を求めるスペインの闘い」の歴史的意味の解明に取り組み,とりわけその「闘い」を支配した思想的対立に大きな関心を払った。その成果がすでに邦訳版が出版されているThe Spanish Struggle for Justice in the Conquest of America (Philadelphia 1949)とAristotle and the American Indians. A Study in Race Prejudice in the Modern World (Chicago 1959)である。ハンケによれば,ラス・カサスが半世紀以上にわたって繰り広げたインディオ擁護の運動は決して孤立無援なものではなく,多くの王室官吏や聖職者から支持された思想闘争であった。したがって,その運動は,帝国主義や人種主義が跋扈する20世紀中葉の混沌とした世界において重要な意味をもつものであった。著者はそのようなハンケの主張を「インディオをめぐる論争の底流にある社会的・政治的利害関係を軽視している」と批判しつつも,きわめて重要な意味をもつものとして高く評価する。なお,「インディアス論争」と称せられるその「闘い」に関する著者とハンケの見解の相違については,本書の第3論文と第4論文で論じられる 。
ハンケの研究は従来の修正主義的歴史家たちのラス・カサス評価を再検討するきっかけとなり,さらに,ボラーWoodrow Borahやクックを中心とする先記のバークリー学派の綿密な人口動態の研究によっていわゆる「大量虐殺説」が裏付けられると、ラス・カサスの主張や証言がようやく信憑性の高いものとして受け入れられることになった。ギブソンCharles Gibsonの『スペイン支配下のアステカ人』The Aztec under the Spanish Rule.1519-1810. [Stanford 1964]やコースEugene Korthの『植民地時代チリにおけるスペインの政策窶博ミ会正義を求める闘い窶煤xSpanish Policy in Colonial Chile: The Struggle for Social Justice.1535-1700 [Stanford 1968]はいずれも,ラス・カサスが行ったスペイン王室の植民地政策批判を正当なものと評価した実証性に富む研究書である。また、同じころ、合衆国で初めて、膨大な史料にもとづく客観的なラス・カサス伝が出版された。ワグナーHenry R. WagnerとパリッシュHelen R.Parishが共同で執筆した『バルトロメー・デ・ラス・カサスの生涯と作品』The Life and Writings of Bartolome de Las Casas[Albuquerque 1967]である。パリッシュはその後、ワイドマンHarold E. Weidmanとともに、ラス・カサスの生年を1474年とする通説を史料にもとづいて否定し、新しく1484年説を唱えた。その1484年説はフランスのマルクースRaymond Marcusの研究でも実証されており,現在では、定説となっている。
さらに1992年、パリッシュ女史は同じくワイドマンと共著で『メキシコにおけるラス・カサス窶白mられざる歴史と作品窶煤xLas Casas en Mexico. Historia y obra desconocidas [Mexico]を出版し、1530年代後半および40年代後半にメキシコで開催された教会会議においてラス・カサスが果たした重要な役割を解明するとともに、1536年にローマ教皇パウルス三世が発布した有名な三通の大教書がラス・カサスの理論にもとづいて作成されたものであることを新史料にもとづいて立証した。このように、著者が「合衆国、いや、おそらく世界におけるラス・カサス研究の第一人者として、ハンケの後継者と呼ぶにふさわしい」と高く評価するパリッシュは「黒い伝説」や「白い伝説」の党派性を越えて、的確な史料批判にもとづく貴重なラス・カサス論を発表している。
つづいて、著者はヨーロッパ、とくにスペインとイスパノアメリカ諸国におけるラス・カサス評価の動向を歴史的背景と絡めながら紹介し、20世紀前半においても、依然として「白い伝説」もしくは「黒い伝説」が数多くの研究者や知識人のラス・カサス評価に大きな影を投げかけていることを明らかにする。20世紀におけるラス・カサス評価の傾向については、別の機会にキーンの論考とほぼ同じ内容のラス・カサス研究史を素描したので、ここでは論評を加えるを控えたい。ただ、著者がフリーデによってラス・カサス研究に新しい道が開かれたと主張している点について、管見を述べておきたい。フリーデは,ラス・カサスの率いたインディオ擁護運動を「16世紀インディヘニスモ」と名づけ、社会的必要に応じて生起した実利的な目的をもつ運動であり、歴史的環境の圧力を受けて展開したものであると主張し、インディオ政策をめぐる論争を正義を求める「思想闘争」と見るハンケ説に異を唱え、ラス・カサスを反植民地主義の運動家と解釈した。つまり、ラス・カサスは「虐げられた人々」の自由と生命を護るために戦った闘士のひとりとして評価され、その評価は20世紀後半に顕在化した第三世界における反植民地主義、民族自決主義を掲げた運動の中で大いに受け入れられた。そして、著者のこの評価は、「ラス・カサスが帰天しておよそ450年が経過する今日、彼の理論は現代人にとって大きな力と意味をもっている」と述べ、メキシコのゴンサレス・カサノバの作品を取り上げて「貧しい人々や抑圧された人々がその圧制者に対して行う闘争の正当性を訴えつづけたラス・カサスのメッセージは今もなおその響きと適正さを失っていない」という結論に帰着する。
問題は、著者が、ヴェトナム戦争とスペインの征服戦争を重ねあわせて、西側諸国による帝国主義的侵略に厳しい批判を浴びせたドイツの詩人エンツェンツベルガーHans Magnus Enzensbergerのラス・カサス評価をもっぱら「反植民地主義」の脈絡に位置づけ、エンツェンツベルガーが鋭く見抜いた「歴史家」ラス・カサスへの評価を座視していることである。エンツェンツベルガーはこう記している。  「ラス・カサスによれば、スペイン人には、インディオより優れていると感ずる理由はひとつもなく、むしろ、多くの点で、インディオの方がスペイン人より優れている。このような洞察はヴィコよりも200年も早く、歴史意識のめざめを示している。彼は人類文化を進化の過程として把握し、文明が単数ではなく複数であることを理解した。ラス・カサスは歴史発展の不同時性とヨーロッパの地位の相対性を発見した。わたしの知るかぎりでは、このような歴史認識をもった人間は16世紀には彼ひとりしかいない。現在でさえ、西側諸国の政府は、その行動からすれば、いまだにそのような認識とは無縁のままである。」 換言すれば、本論文はおのずから、「歴史を奪われた人々」の声に耳を傾けつづけた「歴史家」ラス・カサスに対する評価がまだ緒についたばかりであることを示唆しているのである。
第5論文「16・17世紀のヨーロッパにおけるインディオ像:社会的解釈」は1990年に公刊された論文集『近代ヨーロッパにおけるインディオ像』La imagen del indio en la Europa Moderna(Sevilla)録されたもので,16・17世紀のヨーロッパにおけるインディオ像やインディオ認識(「他者認識」)に関する従来の研究では,思想や法令,あるいは,公式な政治声明が過大評価される傾向の強いことを指摘し,その研究には,各時代の政治的かつ社会経済的な背景窶煤u社会的要因」”social factors”窶狽ェ無視できないことを明らかにするのを目的とした論攷である。
著者はルネッサンスを,人間活動のあらゆる分野で大きな動揺が生じ,政治,経済および文化が相互に影響を及ぼしながら変化した時代と定義し,アメリカおよびその住民の「発見」をそうした変化の結果と捉える。そして,その「発見」が翻ってヨーロッパの物質的かつ精神的な構造に大きな変化をもたらす重大な契機になったと主張し,「発見」がヨーロッパの知的世界に与えた衝撃の内容を説き明かす。「発見」によって,地球上のさまざまな民族の多種多様な習慣や思考様式が明らかになるにつれて,ヨーロッパの地理的な視野が拡大する一方,ヨーロッパの旧秩序を支えた,哲学,政治,社会に関する伝統的な価値観は動揺をきたし,その結果,すでにルネサンスの一翼を担っていた懐疑主義的な傾向がますます強まった。著者によれば,人身犠牲や儀礼的なカニバリズム人肉嗜喰など、西欧的な価値観からすれば「常軌を逸した」そのような行為を理解し,説明し,さらには正当化しようと試みる人たちが現れ,「文化相対主義」が唱えられるようになった。言うまでもなく,その「文化相対主義」は過去窶伯テ典古代の権威やキリスト教教父たちの権威窶狽ニの明白な断絶を示し,「人類学」という学問を生み出し,発展させる重要な要因になった。明らかに,それは,先住民族集団を分類し「人類史」へ組み込むために払われた努力のあとを辿れば,黎明期の人類学の歴史を解明することができるのを実証したアメリカのホッジェンMargaret T. Hodgenの古典的な作品に依拠した主張である。また,著者によれば,インディオの生活様式や行動形式の観察を通じて,ヨーロッパの政治思想も発展し,中には,イギリスのモアのように,先住民の生活様式の中に,当時のヨーロッパで公共社会という名と権利の仮面をかぶって私利を貪っていた「金持ちの陰謀」”conspiracy of the rich”のようなことが起こらない社会,つまり,「ユートピア」の建設の可能性を示す証拠を見出した人たちもいた。  インディオがルネサンス期ヨーロッパに与えた衝撃は,ヨーロッパおよび海外における覇権をめぐって国民国家が相争う状況と重合し,実に多岐多様なイメージを生み出したが,その大部分は「客観的」,もしくは,「科学的」なインディオ像からはほど遠かった。植民地主義的観点からインディオ像を創出したものもいれば,インディオをこれまでにない優れたタイプの人間を作り出す素材として理想化する人たちもいた。著者は,そのような多様なインディオ像とルネサンス期ヨーロッパにおける政治,宗教,思想上の対立とが密接な関係にあることを解明しようとする。
ヨーロッパ人のインディオ像に関する研究はハンケ,イタリアのジェルビAntonello Gerbi[1955], イギリスのエリオット[1970]やペイグデンAnthony Pagdenらによって積極的に進められ,近年では,トドロフ[1987]がアメリカ征服におけるスペイン人=インディオ関係の心理学的かつ記号学的な研究を行い,新しい学問分野を切り開いたのは記憶に新しい。いわゆる「他者認識」の研究である。またその一方で,メキシコのレオン・ポルティーリャMiguel Leon PortillaやフランスのワシュテルNathan Wachtelのように,被征服者たちが征服の衝撃を生き延びたり,和らげたりするために,征服者であるスペイン人たちを理解し,かつ、征服を説明しようとしてはらった努力,つまり、「敗者の視点」に注目した研究者たちもいた。
しかし、著者のキーンは、ヨーロッパ人のインディオ像に関する研究を進めるには,思想史的なアプローチだけでは不十分であり,従来の研究には方法論的な欠陥があると批判し,具体的に数名の研究者を取り上げ、その批判を検証する。著者が最初に取り上げるのは、スペインによるアメリカ征服をめぐる思想闘争の研究で先駆者ともいえるハンケである。
ハンケは16世紀スペインの「言論の自由」と、王室がインディオに「キリスト教徒のように生活できる能力が備わっているかどうか」を見極めるため、実施を命じた「社会実験」を過大評価し、「おのれの支配下にある先住民族の最も正しい取り扱いは何かを探求しようとして、スペイン人ほど執拗かつ情熱的に努力を傾けた国民はほかにはいなかった」と主張した。著者はハンケのその主張を「誇張」と呼び、ハンケがラス・カサスの思想を法文化したものとみなす「オバンド法」(1573年)以降も、インディオに対する情け容赦のない征服戦争と奴隷狩りが依然として行われた事実を指摘し,インディオ保護法が制定・公布されれば,法の執行状況に関係なく,実行されたものとみなす傾向に鋭い批判を浴びせる。
ついで,著者は同じ方法論上の欠点をペイグデンの作品[1982]にも指摘する。ペイグデンは4名の知識人窶買rトリア、ラス・カサス、アコスタとセプールベダ窶狽フインディオに関する見解を論じ、セプールベダを除き全員,アリストテレスの「先天的奴隷人説」をインディオに適用するのを否定し、「一貫性と権威のある」比較人類学への道をつけたと主張する。著者によれば、その4名は王室のインディオ政策を正当化するために思索を重ねた知識人であるが,ペイグデンの基本的な視点は、彼らが「思想の一貫性」を確保するような認識論的作業に従事したことに向けられている。つまり、ペイグデンの分析では、知識人に働きかけ、その思想的立場に影響を及ぼす外的な要因、すなわち、社会的かつ政治的圧力が無視されているのである。著者はその具体例として、正当戦争の権原に関するビトリア理論の奇妙な「常軌逸脱」窶狽P539年に行った特別講義『インディオについて』De Indisで開陳した見解と,それ以前の講義『節制について』De Temperantia(1537-38)で披瀝した主張の間に矛盾が認められること窶狽謔闖繧ー,その矛盾の一因として,インディアス問題に取り組む王室の態度に変化が起きたことを挙げ,詳しく論じる。
さらに,著者は同じ方法論的な誤りを犯した研究者としてエリオットを批判する。エリオットは論文「ルネサンス期ヨーロッパとアメリカ:鈍い衝撃」”Renaissance Europe and America: A Blunted Impact”で,インディオ認識に関して、サアグンBernardino de Sahagunやソリタの世代と16世紀後半のスペイン人聖職者や役人の世代との間に,大きな変化が見られると主張し,その原因を,(1)征服・植民化・搾取のトラウマによってインディオがさらに堕落したことと,(2)16世紀,人間の罪深さが新たに強調された結果,ヨーロッパ人の他者認識のあり方に大きな変化が生じたことに求めた。著者キーンはその見解に異議を唱え,フランシスコ会士メンディエタGeronimo de Mendietaや,プエブラの司教ならびにヌエバ・エスパーニャの副王をつとめたパラフォクス・メンドサJuan de Palafox Mendozaを例に挙げて,16世紀後半以降もインディオの徳を讃えた人々がいたことを立証し,エリオットの誤りは16世紀後半に新しく否定的なインディオ像が生まれた要因として政治的環境の変化を無視したことにあると断定し,ついで,その政治的環境の変化について,以下のように論じる。
著者によれば,部分的にせよ,カルロス一世に支持されたラス・カサス的な親インディオ政策は,フェリペ二世の王位就任以来,実質的に放棄された。著者はその大きな理由として,スペイン人植民者たちがエンコミエンダ制やミタ制の恒久化と奴隷制の存続などを要求して激しい抵抗運動を繰り広げたことと,王室が財政逼迫に喘いでいたことを挙げ,とくに後者が重要な要因になったと主張する。そして、王室がとくにインディオを犠牲にして歳入増加を図る新しい植民政策の実施へ乗り出したことを示す一例として,著者はヌエバ・エスパーニャへ巡察使バルデラマJeronimo de Valderrama窶秤゚酷な租税徴収を実施したため、「インディオを苦しめる人」afligidor de los indiosの異名をとる窶狽ェ派遣された事実を挙げ,さらに,王室の新しい植民政策の根底に流れる思想が第五代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの行った「インカ暴君論」の捏造とラス・カサス思想への弾劾,および、先住民文化に関する作品の没収を命じた一連の勅令窶狽P557年に最初の勅令が発布窶狽ノ現われていると主張する。すなわち,著者によれば、そのような政治状況の変化こそが,エリオットの言う,インディオに関する悲観的かつ否定的なイメージを創出する重要な要因になったのである。フェリペ二世が1568年に召集したいわゆる「合同審議会」Junta Magnaにおいて,スペイン王室の従来の植民政策を大きく転換させる決議が数々となされ,その結果,搾取的植民地経営が加速化したのは事実である。
著者は以上のような前提にもとづいて、つぎに16・17世紀のスペイン,フランスとイタリアの三国における代表的なインディオ像を提示する。まず,スペインでは,カルロス一世の時代,一部の指導的な法律学者や神学者を除いて,白人を「理性を備えた人々」”gente de razon”,インディオを「理性を欠いた人々」”gente sin razon”とみなすステレオタイプな解釈が通念として流布していたことを説き,とくにフェリペ二世の統治以降,その否定的なインディオ像が支配的になり,17世紀には,著名な法律学者ソロルサノ・イ・ペレイラJuan de Solorzano y Pereiraやその弟子レオン・ピネロAntonio de Leon Pineloまでがインディオを先天的奴隷人とみなす考えに疑問を抱かなかったと主張する。その一方で,著者によれば、少なくとも16世紀中葉までスペイン王室のインディオ政策立案に大きな影響を及ぼした親インディオ運動を担った一部のドミニコ会士,フランシスコ会士やアウグスティヌス会士たちは,例えばエンコミエンダ制をめぐる議論において,意見の対立を見ることがあっても,インディオが生来劣った存在であるという説にこぞって否定的な態度を示した。著者はそのような聖職者たち窶買宴X・カサス,キローガVasco de Quirogaやメキシコ初代司教スマラガJuan de Zumarraga窶狽Cモアやエラスムスなど,ルネサンス期ヨーロッパの社会派ヒューマニストのスペイン版とみなし,両者間の思想的な繋がりを論じる。 さらに,著者は,聖職者以外にも,イサベル女王の宮廷に伺候したイタリア人ユマニスト,ピエトロ・マルティーレPietro Martyre(スペイン語名ペドロ・マルティルPedro Martir),王室役人ソリタや征服者シエサ・デ・レオンなど,親インディオ的態度を示した人物が大勢いたことや,フリーデの説に依拠して,親インディオ運動には,スペイン社会の広範な階層が関与していた事実窶迫痰ヲば、1520年の「コムネロスの反乱」において、エンコミエンダ制非難の決議が行われたこと窶狽唐ーて,16世紀中葉にいたる親インディオ運動の広がりを強調する。そうして,著者は16世紀後半から17世紀において生じた親インディオ運動の衰退,換言すれば,理想化されたインディオ・イメージの消滅と,スペインが封建時代から資本主義時代への移行期に直面したさまざまな政治的かつ社会経済的な問題とを関連づけるのである。
つづいて,著者はスペインによるアメリカ征服を論じた外国の知識人たちの間に認められる親インディオ・反スペイン的態度をもっぱら政治や植民地をめぐってスペインと対立する国々の国家主義的な敵意や羨望の反映と見なすのは誤りであり,征服をめぐる立場を決定する要因ははるかに多様かつ複雑であると主張し,フランスとイタリアにおけるインディオ像を概観する。著者はフランシスコ会士テヴェAndre Thevetとユグノーのショーヴェトンを例に,フランスでは,16世紀,宗教的帰属(カトリックかカルヴァン派か)がインディオやスペインのインディオ政策に関する見解を決定する重要な要因になったと述べ,ユグノーのインディオ像が両義的で,賞賛と非難の入り混じったものであることを解明する。つぎに,著者は,インディオ像が偏狭なナショナリズムと無関係に創出されたことを立証するため,ラブレーRabelaisやモンテーニュを取り上げ,モンテーニュがインディオを賞賛し,ヨーロッパ人に対して、自己の優越性を主張することを認めなかったのは,彼がスペインのみならず,ヨーロッパの植民地主義を激しく批判したことと、インディオをヨーロッパの旧体制の基盤を覆すための「機関銃」として「利用した」ことを示唆していると断じる。その主張は,著者の視点がインディオを西欧中心的な世界史認識に取り込んでいくことの問題性に向けられていないことを示唆していると言えるだろう。
ついで,著者は16世紀イタリアにおけるインディオ像に論を進め,10年以上におよぶインディアス滞在経験をもつミラノ生まれのベンツォーニの『新世界史』を取り上げる。ベンツォーニとその作品は,「黒い伝説」との関係で論じられることが多く,著者によれば,作品は必ずしもスペイン人批判を目的としたものではない。その証左として,著者は,ベンツォーニが「インディアス新法」を賞賛していること,グァテマラのアウディエンシアの議長ロペス・セラトAlonso Lopez Cerratoのインディオ擁護政策や初代メキシコ副王メンドサAntonio de Mendozaの施策を評価していることなどを挙げるが、その論拠は弱い。と言うのも、作品には,以下の引用に見るように、スペインの植民統治の実態を厳しく告発する記述もかなり認められるからである。  「ここまで読み進んでこられた読者諸賢は、もしかすると、スペイン人たちはじつに勇敢にこのインディアスの国々を征服し、支配したものだと考えられるかもしれない。だが,スペイン人たちがいくら歴史書でキリスト教信仰のために闘ってきたと自慢しても、とりわけこの国々における事実がはっきりと証明しているように、彼らが闘ったのは〔信仰のためではなく,黄金を手にいれたいという〕欲望に駆られてのことなのである。それが確かなのは、かつてこの国々にやって来たさまざまな指揮官や総督が、財宝に出会わなかったところには腰を落ち着けようとしなかったことで説明がつく。」  ベンツォーニがスペイン人征服者の黄金欲と残忍ぶりによって,インディオとスペイン人の関係が敵対的なものとなり,その結果,先住民のキリスト教化への道が閉ざされたと認識していたことや,くりかえしインディオとの会話を作品に挿入し,インディオの文化的水準を評価していることに注目すれば,著者の指摘するとおり、彼の批判はスペイン人征服者ではなく,スペインが押し進める植民地主義に向けられているのは確かであろう。ただ,ここで問題とすべきは,ベンツォーニのインディオ認識であり,確かに彼はインディオの知的水準の高さを認識しているが,ことカリベ人に関しては,彼らを人喰いとみなす当時の通念を疑うことなく受け入れているのである。
しかし,17世紀,トリノやヴェネチア-1620年代,イタリア支配に乗り出したスペインに抵抗した人々の拠点-で,反スペイン感情を煽る冊子やラス・カサスの著作のイタリア語訳が公刊された背景には,明らかに,イタリアおよびインディアスを支配するスペインへの激しい敵意が潜んでいた。しかし,著者はイタリアのバトリョリMiguel Batllori[1974]にしたがって,ラス・カサスの作品のイタリア語訳の出版は反スペイン的冊子の刊行と異なり,「キリスト教的ヒューマニズム」に訴えるのを目的としていたと断定する。つまり,その出版には,イタリアという国家の利害を越えた反植民地主義的意図があったと主張するのである。しかし,翻訳されたラス・カサスの作品が『インディアスの破壊』だったことなどを考慮すれば、「黒い伝説」との関係も否定できないだろう。ついで、著者はその主張を押し進め、興味深いことに、反植民地主義的な意図のもとにコロンブスを弾劾し親インディオ論を披瀝した人物として、モンテーニュよりもはるかに大胆な哲学者であり,異端として焚殺されたブルーノGiordano Brunoを取り上げる。
そのように, 著者は,ルネサンス期ヨーロッパにおけるさまざまなインディオ像が当時の物質的かつ精神的な利害の絡んだ複雑な国際的な紛争の中で形成されたものであることを説き明かし、ヨーロッパのインディオ像がさまざまな「社会的要因」によって創出されたことを強調する。確かに、インディオ像の形成における社会的要因の重要性を明らかにするための論旨展開は明快だが,論文では,それらのインディオ像が「実像」から離れて形成されていったことの歴史的意味を問う作業の重要性がまったく言及されていないので、両者の因果関係がはらむ問題が見えてこない。
第9論文「西欧思想におけるインカ像」は,1987年ローマにおいて開催された第10回地中海会議で発表された論攷である。著者はその代表的な著作『西欧の思想に見るアステカ像』で,ルネサンス,バロック,啓蒙主義,ロマン主義,実証主義やマルクス主義が西欧においてさまざまなアステカ社会論を形成してきたことを説き明かしたが,本論でも,それと同じ視点から,インカ社会の性格をめぐる論争を紹介し,その論争と各時代の社会経済的,政治的かつ思想的対立との関係を解明しようとする。
『西欧の思想に見るアステカ像』は4世紀半におよぶヨーロッパの社会的かつ歴史的な状況とアステカ文明に関する集団もしくは個人の見解との間に因果関係が存在することを解明した作品であり,したがって,著者が,「知識社会学」として知られる学問にいくばくかの貢献をしたと自負するのも頷ける。著者によれば,アステカをめぐる論争に,それぞれの時代の問題がたえず関わってきた事実は,いかに歴史研究のテーマが現在,もしくは,現在の問題から遠くかけ離れていようと,一部の歴史家が希求するような不偏不党性もしくは中立性を達成するのは不可能に近い。そうして,著者はヘーゲル的表現を用いて,「正」→「反」→「合」というプロセスを辿って,アステカ社会の本質に関する論争が幾久しく行われてきたことを19世紀合衆国の人類学者の先駆者モルガンらを引用して解明したあと,インカ社会論の変遷に論を進める。
著者はまず,ヨーロッパにおけるアステカ像とインカ像の違いに言及し,インカはアステカと比較すると,当初からはるかに好意的に見られたと主張し,インカが美化された要因について論じる。著者によれば,アステカ帝国が過酷な徴税システムを通じて臣下に苛斂誅求を働いたのに対し,インカは税の厳しい取立てと引きかえに,「平和と良き秩序,それに臣下の繁栄の推進」を保障したと伝統的に見なされてきた。また,アステカに比して,人身犠牲や儀礼的なカニバリズム人肉嗜喰がさほど頻繁に行われなかったことや,征服に見られる状況の違い-私生児で文盲のピサロによるアタワルパの処刑など-がインカを美化するのに有利に作用した。最後に,著者は,インカはアステカと異なり,ヨーロッパ人の興味をそそるような側面を備えていたと述べ,19世紀以降,知識人がそれぞれの思想的立場にもとづいて,インカ国家を「社会主義的」と解釈した事実を取り上げる。
1920年代のペルーでは,インカの「社会主義」もしくは「共産主義」の復活が多くのインディヘニスタ運動,ポピュリスト運動,あるいは,左翼運動の計画の綱領となったが,同じころ,ヨーロッパでは,ロシア革命の影響が波及するのを恐れて,「インカ国家は臣下を非人間化して獣的な身分へ貶めた国家である」と指摘する研究者も現れた。著者の指摘するとおり,そのように,資本主義,あるいは,社会主義の功罪を議論する際に,工業化以前の古代国家が例として持ち出されるのは稀有なことであった。
征服初期に記された報告書やクロニカは軍事活動を主たるテーマとしているが,中には,インカ文明に関して,簡単だが,驚きと賞賛の念の入り混じった忌憚のない見解が書き綴られている文書もある。著者はそのような記録文書を書き残したクロニスタとして,エルナンド・ピサロ Hernando Pizarro,クリストバル・デ・メナCristobal de Mena,エステーテMiguel de Esteteとともに,ペドロ・ピサロPedro Pizarroの名前を挙げているが,P.ピサロに関しては,作品の執筆時期がかなり遅く,クロニスタ自身の「介入」が随所にみられるので,初期のクロニスタとして分類するのは問題がある。
ついで,著者はインカ時代のペルーに関する,最初にして最良の記録を残した人物として,「クロニスタの王者」と呼ばれるシエサ・デ・レオンを取り上げ,詳細に論じる。著者はまずシエサの生涯を素描したあと,クロニカ-浩瀚な4部作『ペルー誌』Cronica del Peru-執筆の動機や擱筆時期について記し,作品論を展開する。著者によれば,シエサの作品が名声を得た原因は数々あるが,その最大の要因は,シエサが「敗者〔インディオ〕の見解を理解し,共有する」ほど,ヒューマニストだったことにある。とは言え,著者は彼を「極端な」親インディオ派の人物ではなかったと断言し,以下のように主張する。  「シエサ・デ・レオンは,インカの政治および社会のシステムを讃えたとしても,低い文化レベルにある《獣のごとき》部族を批判し,歯に衣を着せず,また,いっさい弁護することなく,人肉嗜喰のような常軌を逸した行為を非難した。彼は征服戦争とその結果の惨状を十分に目撃し,インカとスペインの統治方法に違いがあるのを認識した。」
ここで,著者が重要な事実を見過ごしているのを指摘しておきたい。著者の言うように,シエサの情報源はほとんどクスコ在住の旧インカ貴族とインカ王の子孫であり,その意味では,彼のインカ礼賛は「被征服者であるインカ貴族」の見解を反映したものであり,ひいては,彼が書き綴ったペルーの歴史は,アメリカのシルバーブラットの表現を借りれば,「インカ国家の正当性で塗り固められた」クスコ版インカ帝国史なのである。重要なのは,シエサがインカ支配外にあった現コロンビアから旧インカ帝国の領土へ足を踏み入れてクスコへ向かう途中,アンデス世界のさまざまな先住民文化に触れ,それぞれの文化の間に大きな隔たりがあるのを認識したことであり,著者はこの重要な事実を看過している。先に触れたように,シエサはその認識にもとづいて文明の発展段階論を唱え,スペイン支配の現状を是認したのである。
著者は,シエサの『ペルー誌』第一部が彼の存命中に出版されたことで,16世紀末ころヨーロッパでは親インカ的見解が支配的になったと記し,モンテーニュやボテーロGiovanni Boteroのインカ情報を例挙する。ついで,著者は,シエサが「征服された征服者」”conquistador conquistado”-著者によれば,「敗者の視点」に魅了された征服者のこと-となった理由に言及して,シエサ家と新しい信仰運動との密接な関係を論じ,シエサとエラスムス,さらにはシエサとラス・カサスとの思想的繋がりを主張する。著者によれば,シエサがエラスムスの作品を読んでいたのは周知の事実だが,少なくとも評者の知るかぎり,その事実を指摘した研究者は皆無に近い。また,シエサとラス・カサスの歴史認識は大きく隔たっている。著者は,シエサとラス・カサスを結びつける証左として,他の研究者と同じように,シエサが遺言執行人に,自著『ペルー誌』第二部の原稿をラス・カサスに手渡し,印刷を依頼するよう命じていた事実を取り上げるが,それが両者の思想的な繋がりを立証すると考えるのはあまりにも短絡にすぎる。ファビエーによれば[1879],『メキシコ征服記』Historia verdadera de la conquista de la Nueva Espanaを著した征服者ディアス・デル・カスティーリョBernal Diaz del Castilloも特権賦与の申請をラス・カサスに依頼しているのである(1558年2月20日付け書簡)。したがって,それはインディアス問題に関するラス・カサスの発言力の大きさを証明しても,両者間の思想的繋がりを立証するものではない。
著者はさらに,『ペルー誌』第二部が著者の没後3世紀以上も経た19世紀に出版された理由として,フェリペ二世治下,親インディオ運動が衰退し,新しい植民政策-国家財政を立て直すためにインディオを犠牲にして歳入の増加を目指す政策-が決定されたこと,それに,1557年を嚆矢として,インディオ文化に関する書籍の差し押さえや没収が強化されたことを挙げる。さらに,著者によれば,反インディオ的反動の思想が最も顕著に現れているのは第五代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの政策であり、ここでは,トレドがラス・カサス理論-インカ王はペルーの真の正当な支配者である-を否定するため,インカ国家の歴史と性格に関する調査を実施し,「インカ暴君説」を創出したことに関する著者の見解を取り上げたい。
言うまでもなく,著者が論じるのは,副王トレドの側近であるガンボアPedro Sarmiento de Gamboaの編纂した『インカ史』Historia indica(1572)であり,著者は,ガンボアがシエサと異なり,インカ支配下で頻発した略奪行為,インカ王室内部の陰謀,地方の民族集団の反乱とインカによるその残忍な鎮圧の様子などを詳細に書き綴っていることから,彼の情報提供者を先インカ期の支配者かクラーカで,クスコ支配に反感を抱き,スペイン人の侵略をインカから独立する好機と捉えた先住民たちだと結論づけている。近年の研究によって,インカ王朝が双分的だったことがほぼ定説化していることを考慮すれば,著者の指摘するように,シエサよりも,ガンボアのインカ情報の方が客観性を備えていると言える。そのように,著者が情報源の問題に注目しているのは特筆に価するが,クスコ情報であれ,クスコ以外で収集された情報であれ,先住民の情報をもとに「インカ暴君説」を創出したガンボアの作品が副王トレドの意図に反して,16世紀に日の目を見なかった事実窶博闕eが発見されたのが1893年で,初版が刊行されたのが1906年窶狽フ背景に言及せず,ただ「実に興味深いこと」と述べるにとどまっているのは理解しがたい。と言うのも,王室の意図に適った作品が出版されなかった背景に鋭く切り込まなければ,著者の主張する,インディアス論争と「社会的要因」との密接な関係を検証することは不可能と考えられるからである。1577年,インカ国家を「軍事的専制国家」とみなしながらも,その支配の実態から,「秩序と調和のとれた国家」として描いたサラテAgustin de Zarateの『ペルー発見・征服史』Historia del descubrimiento y conquista del Perv..が検閲の結果書き改められてセビーリャで出版されているのである。
つぎに,著者は,アンデス考古学の泰斗,アメリカのロウJohn H. Roweが「インカ全般に関して,今世紀以前に書かれた最も代表的な論著」と呼んだイエズス会士コボBernabe Coboの『新世界の歴史』Historia del Nuevo Mundo(1653年完成)を取り上げ,17世紀のスペインにおけるインカ像を論じる。著者によれば,コボの作品は当時のスペインにおけるインカ論を代表し,強烈な反インディオ・反インカ思想はテクスト自体よりも,むしろインディオの性格に関するコボ自身の一般的な見解に現われている。コボのインカ批判はその専制的な支配に向けられ,彼によれば,インカ支配下のアンデスでは,人々はさながら非自由民のような暮らしを強いられていた。著者キーンは,そのような否定的なインカ像がすでに反インディオ的見解が定着していた17世紀のスペインにおいて一般的だったと主張するにとどまり,なぜコボの作品が19世紀後半にいたるまで出版されなかったのか,その理由については,不問に付したまま明らかにしない。
したがって,17世紀スペインでは否定的なインカ像が支配的だったという著者の立場からすれば,インカ社会,とりわけ,インカ王と臣下の関係を牧歌風に描いたインカ・ガルシラソの『インカ皇統記』Comentarios Reales de los Incasが1609年にリスボンで出版されたのは「アイロニー」と表現するしかなかった。著者によれば,『インカ皇統記』は歴史書というより一級の芸術作品であり,その作品ほど,ヨーロッパで読まれたスペインの歴史書はなかった。著者が指摘するように,従来,作品は一次史料としての価値を低く評価されてきたが,近年では,歴史学や文学のみならず,心理学や言語哲学の分野の研究者も,青年時代にクスコを離れ,以後他界するまで,スペインという「異国」に身を置いた「メスティーソ」である著者の特殊な立場を重視した研究を進め,作品に見られる修辞の分析や解明に取り組んでいる。いずれにしても,『インカ皇統記』がラス・カサスの『インディアス文明誌』とともに,その後数世紀にわたり,ヨーロッパにおける「ユートピア的なインカ像」を創出するうえで重要な役割を果たしたのは否定できないが,両者のユートピア的インカ帝国像が大きく異なる歴史認識にもとづいて形成されていることに留意しなければならない。  『インカ皇統記』が低く評価されたのとは対照的に,アメリカの文化人類学者ムッラJohn Murraが「アンデス世界の研究にとって,20世紀で最も重要な発見」と高く評価したのが,無文字社会のアンデスに生を受けた先住民グァマン・ポマが独学で修得したスペイン語を駆使して書き綴った浩瀚な『新しい記録と良き統治』-1909年にデンマークの王立図書館で発見され,36年にパリでその初版が出版-である。作品は17世紀初頭に書き上げられ,時のスペイン国王フェリペ三世に「書簡」として奏上されたが,著者の言うように,国王の目に触れた証拠はない[染田・友枝1992:44-45]。1990年代初頭,イタリアのラウレンシチLaura Laurencichi Minelliが,グァマン・ポマはメスティーソのイエズス会士ブラス・バレラBlas Valeraの偽名だというセンセーショナルな説を唱え,アンデス学者の間に激しい論争を巻き起こしたが,ラウレンシチ説の論拠となった17世紀の史料(「ナポリ文書」)-『ペルー史ならびにペルーの言語』Historia et Rudimentaria Linguae Peruanorum-を詳細に分析したアメリカのアドルノRolena Adornoらが明らかにしたように,ラウレンシチ説は実証性を欠いたもので,「推測」の域を出ない。
著者によれば,グァマン・ポマとインカ・ガルシラソの明白な違いは,グァマン・ポマが自らを貧困に喘ぐインディオ大衆と同一視したことと,急進的な植民政策の改革を求めたことにあった。しかし,重要なのは,両者の間でアンデスの歴史に関する認識が根本的に対立していたことである。著者は,インカ文化に関して,グァマン・ポマの作品は両義性と矛盾に満ちていると主張するが,それは,グァマン・ポマが土地をめぐる裁判で敗訴したことなど,植民地社会における彼の立場を無視した短絡的な見解である。著者は,シルバーブラットの言葉を借りれば,「自己の研究対象を時間をもたない集団とみなす人類学の主潮にそって,本来のインカ文化を模索する過程で,先住民のクロニスタたちを植民地世界から切り離すという陥穽にはまった」アンデス研究者と変わらない。
ついで,著者は18世紀の啓蒙主義時代に論を進め,インカ国家に関する学問的著作には重要な変化が認められないと主張する一方,インカ像には,やや新しいニュアンスと広がりが見られたと述べる。それは,ジェルビのいう「新世界に関する論争」がインカに対する厳しい批判と,それに対する激しい反撃を惹起したためであり,論争は,デ・パウがビュフォンComte de Buffon(Georges Louis Leclerc) の風土論やヴォルテールの体系的な懐疑主義に依拠して,先スペイン期の先住民文化をことごとく否定し,スペイン人クロニスタの誇張された記述を真摯に受け止めるのに異議を唱えたことを嚆矢とする。
著者によれば,イギリスでは,デ・パウやビュッフォンの説は「用心深く好意的に受け入れられ」,イギリスの知識人はおおむね既存の社会秩序に満足していたので窶狽アの主張の論拠は示されていない窶煤Cインカ社会のような高度な先住民社会を理想化する傾向は大陸におけるほど顕著でなかった。また,イギリスの社会科学者はインカとアステカを比較する傾向にあったが,つねにインカを優れた国家として評価した。それは,インカ・ガルシラソの『インカ皇統記』が権威ある作品として受け入れられていたことを示している。さらに,著者は,基本的に技術を基準とする文明の発展段階論にもとづいてインカとアステカを「未開から文明へと移行する最初の段階に位置づけた」18世紀のロバートソンを取り上げ,彼の人類学的貢献を評価する。
ついで,著者は,19世紀前半のロマン主義運動によって,西欧の人々の前に,眩いほどのインディオ像が描かれたと主張し,それは,インディオが権利を剥奪された敗北者の集団-自由を勝ち取るために闘う農民や少数民族-と同一視された結果であり,彼らの苦しみや美徳がロマン主義者の心を打ったのである窶狽アの主張も事例を挙げて論証されていない窶煤Bしかし,インカやアステカなど,文化的に進んだ先住民族集団に対する態度は両義的であった。個人主義と進歩を信条とするロマン主義者はいわばブルジョア革命の先駆者であり,おおむねインカの専制主義や神政政治に嫌悪感を抱いた。その代表的な例として,著者はドイツの偉大な学者A.フンボルトとアメリカの歴史家プレスコットのインカ論を取り上げる。
著者によれば,19世紀後半以後,歴史家はインカ国家の否定的な側面-専制政治-を「社会主義的」あるいは「共産主義的」と仮定された特徴と関連づけ,人々の自立心を奪った体制として批判した。著者はその一例として,反社会主義,反強権主義の立場をとるペルーの自由主義的歴史家ロレンテSebastian Lorenteの以下のような示唆に富む見解を引用する。  「抵抗を考えただけでも,冒涜とみなされたインカのくびきのもとで,人々は自立する感情をすべて失い,また,個人の生存すべてを取り込んだ社会主義によって,すべての自由意志を覆い隠され,その結果,彼らは人間であることをやめ,機械と化してしまった。人々は国家の受動的な道具として,あらゆる恩恵を無償の贈り物として授かり,あらゆる不幸を抗し難い運命として甘受したのである。」  その一方,インカ国家を熱烈に擁護するロマン主義者たちも存在した。有名な人物はプレスコットの『ペルー征服史』に影響を受けたイギリスの地理学者マーカムClements Markhamと北アメリカのスクワイアーE.George Squierである。しかし,同じころ,ヨーロッパでも北アメリカでも,家父長的あるいは社会主義的インカ国家というロマン主義的解釈は科学的かつ進化論的人類学から次第に激しく攻撃されることになった。その代表的人物はロバートソンの発展段階論を援用して一系列的な進化論図式-蒙昧→野蛮→文明-を示し,アステカ社会を北アメリカのイロクォイ族の社会と変わらない「野蛮の中間段階」に位置づけたアメリカのモルガンであり,その代表作『古代社会』がマルクスやエンゲルスに受け入れられたのは周知のとおりである。著者によれば,マルクスもエンゲルスも古代のペルーやメキシコについてなんら知識をもっていなかったため,モルガンの作品を盲目的に信じ込むしかなかったのは不幸なことであった。
一方,ヨーロッパでも,モルガンの影響を受けて,ドイツの社会学者クノウHeinrich Cunowがアイユについて研究し,インカ・ガルシラソの「空想的インカ帝国論」を否定し,インカ帝国が成立するはるか以前から,ペルー型社会主義は存在したと主張した。つまり,クノウはモルガンにしたがって,インカ国家の存在を否定し,対立する独立部族の単なる連合体にすぎず,外見上,共通の行政によって統一されていたものだと断じた。「ペルー考古学の父」と呼ばれるドイツ人ユーレMax Uhleもまた,アイユに関して,クノウと同じような結論を導いた。しかし,その学説はペルーではあまり歓迎されず,19世紀末に生起し,第一次世界大戦後に最も活発になったインディヘニスモ運動では,インカ帝国の栄光を讃える傾向が支配的になり,その代表的な作品はバルカルセルLuis E. Valcarcelの『アンデスの嵐』La Tempestad en los Andes(Lima 1927)である。
インカ帝国を原始的な社会主義的組織のモデルとみなす考えは大部分のインディヘニスタに共通しており,マルクス主義者のマリアテギJose Carlos Mariateguiも例外ではない。マリアテギは,インカ帝国を「歴史上最も進んだ原始的な共産主義的組織」とみなしたが,インカ社会主義の再建もしくは再生をロマン主義的で反歴史的だといって拒否した[Ibid.:167]。しかし,彼のインカ論はロシアのミロシェフスキV. Miroshevskyによって,お伽話に基づく,事実を歪曲したものだと批判された。ロシア革命は資本主義体制に脅威を与え,その結果,インカ「社会主義」の功罪に関する議論が熾烈を極めた。1928年,フランスの経済学者ボーダンLouis Baudinは『社会主義帝国インカ』The Socialist Empire of the Incasを発表し,インカ帝国の諸制度に関する伝統的な解釈をさまざまな資料を駆使して実証したが,保守主義者ボーダンが目指したのは,個人が国家に吸収される集産主義的な体制のもたらす恐ろしい結果を証明することであった。しかし,ボーダンの意図がインカ国家にまとわりついた「黄金の輝き」を消滅させることだったとすれば,その意図は成功せず,皮肉なことに,インカ帝国=社会主義国家というイメージを増幅させることになった。
大恐慌の結果,とくにアメリカ合衆国では,過去,現在を問わず,原始社会に見られる穢れのない純朴さが知識人の間で高く評価され,そのネオロマン主義的傾向はレッドフィールドRobert RedfieldやヴェイラントGeorge C. VaillantやミーンズPhilip A. Meansのそれぞれの作品に認められる。著者はとくにその中から,優れた考古学者であり,インカ関係の文献に関する泰斗であるミーンズを取り上げ,その学説はインカ国家の性格や機能に関する伝統的解釈窶煤u社会主義的」,「封建的」,「福祉主義的」国家窶狽フ域を出ていないと断じる。
しかし,1950年代,北アメリカの人類学者によってアンデス研究に新しい道がつけられた。ボアズFranz Boazとその弟子たちが「文化の平等」”equality of cultures”をスローガンに,文化の歴史を単一的起源にもとづく画一的な発展と捉える進化主義人類学に代わって,歴史主義人類学を唱えたのである。一方,それに対して,ホワイトLeslie A. WhiteやスチュワードJulian Stewardらは新進化主義人類学を提唱し,その結果,人類学に歴史学的かつ生態学的なアプローチが持ち込まれることになった。そうして,太平洋圏やアフリカで発見された前期資本主義的な階層社会にみられる経済的基盤と社会・政治組織との関係,土地の割り当てや余剰生産物の流通における統治者の「互酬的な」役割や,「首長制国家」の性格といった問題の解明が行われ,同じ視点から,インカ研究も行われるようになった。
そのころ,アメリカをはじめ,世界を見渡しても,インカ研究者は数少なく,著者が代表的な研究者として挙げるのは,ボーダンのインカ社会主義説を否定して,世襲的相続にもとづく私有地が存在したことを明らかにしたムーアSally Falk Mooreと考古学者のロウで,著者によれば,ロウが1947年に発表した「スペインによる征服期のインカ文化」Inca Culture at the Time of Spanish Conquestは依然としてインカ文化に関する基本文献となっている。確かに著者の指摘するように,インカ文化全般に関して,ロウの論文を越える総合的な研究は未だに発表されていないが,近年,考古学者,文化人類学者や歴史家がロウ説を一部,修正もしくは否定するような,かなり実証性の高い研究を発表している。とりわけ,「列島型垂直統御論」で有名なムッラの博士論文『インカ国家の経済組織』The Economic Organization of the Inca Stateが公刊されて以来窶買Xペイン語版は1978年,英語によるオリジナル・テクストは1980年に初めて出版窶煤Cインカ国家の経済活動や社会生活に関する研究が飛躍的に進んだのは注目に値する。
ムッラの功績は,主としてクスコ情報にもとづいて記述されたクロニカを重視する伝統的なインカ史研究を批判し,クロニカだけでなく,地方民族集団の視点を読み取ることのできる植民地時代の行政文書(巡察記録)や訴訟文書,遺言書などの地方文書に注目して,植民地時代に入っても,旧インカ帝国に組み込まれていた地方の政治組織が列島型垂直統御を維持していた実例を複数,発見し,従来インカ国家の業績とみなされていた技術的かつ社会的システムの多くが実はアンデス住民の伝統的な政治経済的戦略の産物だったことを明らかにした点にある。さらに,ムッラが示唆するところによれば,かつてアイユとクラーカの関係を規定していた互酬的原理は外観のみを残してインカ国家によって搾取的なものへと変化させられ,そして,インカはその搾取的性格を隠匿するために新しいイデオロギーを創出し,そのイデオロギーにスペイン人クロニスタ同様,インカ史研究者も欺かれてきたのである。そのようなムッラ説が近年のインカ史研究に大きな影響を与えたのは研究史をひもとけば一目瞭然であり,現在,アンデス史研究者はムッラ説を取り込みながら,伝統的な,いわば「欧米化された」インカ像の解体と,より客観的な「実像」の再構築を目指して,学際的な研究に取り組んでいるのである。 論文を結ぶに際し,著者は,インカ社会に関する今後の評価はそれぞれの時代の政治,社会経済や思想などの問題や世論を反映するだろうと述べるが,現代におけるインカ史研究の動向と「社会的要因」との密接な関係,とりわけ20世紀後半における民族自決主義の高まり窶煤u社会的要因」窶狽ニインカ社会論との関係についてほとんど言及しない。また奇妙なことに,著者はインカ史研究においてムッラと同様,とくにクスコの親族構造を分析し,インカ史研究の発展に貴重な役割を果たしている著名なオランダの社会人類学者トム・ゼイデマTom Zuidemaの研究にも触れてない。その意味で,本論文は,『西欧の思想に見るアステカ像』と同じ視点からインカ社会論の変遷を素描したものとはいえ,論旨展開に緻密さが見られず,インカ社会に関する研究史の書誌的情報を提供するものに終わっている。
以上,簡単に3篇の論文を取り上げ,主に内容を紹介しながら,管見を述べたが,著者の主張するように,時代の「社会的要因」を重視しつつ,その「思想」の意味を問う作業の重要性は否定できないものの,一方,「思想」が特定の社会現象を創出する要因となる可能性,換言すれば,時代を越えた,あるいは,より普遍的な「思想」が特定の社会現象を惹起する可能性も否定できないのではないだろうか。少なくとも,両者の間に一方的な因果関係のみを設定するのではなく,双方向的な関係があるのを認めなければならない。もちろん,キーンの作品は一方的な関係のみに重点を置いて書かれたものではないが,「社会的要因」が強く主張されていることから,ややもすれば,「精神的要因」の分析が皮相なものになっている。それは,著者が「発見」の知的「衝撃」の肯定的な側面として16世紀における文化的「相対主義」の誕生を挙げていることからも伺える。しかし,そのような瑕疵を指摘できるからといって,本書がラテンアメリカの植民地時代,とりわけ,スペインの植民政策に関する興味深い研究史であると同時に,貴重な書誌学的資料としての価値を失うものではない。その意味で,本書は,ラテンアメリカ史,とりわけ,その植民地時代史に関心のある方々に,是非一読していただきたい作品である。